【レトロアーケードゲーム】ナムコの歴史 その1

今回は、懐かしい

ナムコ往年のレトロアーケードゲーム

について紹介していきます。

ナムコと言えば、やはりアーケードゲーム!

と言う方もきっと多いでしょう。

最近は目立った新作ゲームも無く、今はガンダムゲームが多い為、ナムコゲームと言うよりはバンダイのゲームと言ったイメージが強いです。

残念ながら、ゲームメーカーとしてはスッカリ落ちぶれてしまった感があるナムコ。

しかし、80年代辺りまでは画期的なゲーム、世界中で大人気だった大ヒットゲームなど色々ありました。

今回はその中でも、主に1978年から1980年に稼働開始した業務用アーケードゲームについて紹介していきます。

懐かしいナムコのレトロアーケードゲームが好きな方は是非見ていってください。

ナムコ アーケードゲーム史1

 

GEE BEE(ジービー)

1978年

ナムコ

ナムコは中村雅哉史によって創業された、元はアミューズメント機器などを製造・販売する会社でした。

主にデパートの屋上などに設置する遊技台などを手掛け、後にATARIと提携することで、ポンやブレイクアウトなどのビデオゲームを輸入し販売することになります。

その後、自社でもビデオゲームを作ることになり、このGEE BEEがナムコの自社ゲーム第一弾。

パドルとボールの、いわゆるブロック崩しゲームにピンボールのシステムを加えた内容です。

ゲームデザインは、後にパックマンを生むことになる岩谷徹氏、プログラムは石村繁一(バンダイナムコゲームス社長)が担当しています。

当時としては、それなりに出荷台数はあったようですが、人気はそこまで高くはありませんでした。

SOS

1979年

ユニバーサル特機

縦にスクロールするシューティングゲームで、GEE BEEの基板を改造して作った作品。

ユニバーサル特機の吉岡一栄氏が開発。

敵機を攻撃していくシンプルな内容ですが、撃ち漏らした敵機が100機を超えると、残機が残っていてもゲームオーバーになります。

途中、左右どちらかからSOSの信号あるので、SOSが来た側へ機体を寄せると得点が加算され敵の侵略機を減らすことが可能。

また、あまり知られていませんが、脱衣有のアーケードゲームは本作が最初。

こちらも当時からあまり人気は無かったようです。

順風満帆に見えるナムコのアーケードゲームですが、初期の頃は、かなり苦戦していたようですね。

ボムビー

1979年

ナムコ

ナムコの業務用アーケードゲーム第二弾で、見た目通りジービーが進化したゲーム。

画面がカラフルになり、爆発の演出も追加されています。

本作をゲームデザインしたのも、ジービーと同じ岩谷徹氏。

岩谷氏は、スペースインベーダーの大ヒットで影に隠れてしまったジービーの無念から、本作を作ったと語っておりました。

ギャラクシアン

1979年

ナムコ

言わずと知れた、ナムコ躍進のきっかけとなった固定画面のシューティングゲーム。

当時はタイトーのスペースインベーダーの大ヒットで、多くの会社がインベーダーゲームの類似品を発売していました。

任天堂やコナミなども、スペースインベーダーとソックリなゲームを発売しましたが、その中でも、唯一インベーダーゲームの類似品を作らなかったのがナムコ。

ナムコは当初から、インベーダーゲームブームはすぐに終わると読んでいたようです。

その代わりに、スペースインベーダーを超える作品の開発を着々と進め、

企画は澤野和則氏、

ハードは後にナムコ社長となる、石村繁一氏、

プログラムは、後にポールポジションやウイニングラン、リッジレーサーなどを手掛けることとなる田城 幸一氏、

など、後のナムコを支えるクリエイター達が作り上げたのが、本作ギャラクシアン。

カラフルな色や、敵の滑らかな動きや急降下して攻撃してくる設定など、当時のプレイヤーはもちろん、オペレーターも度肝を抜かれたそうです。

また、国内ではスプライト機能を使用した初めての作品で、当時最先端を行っていたゲームであったことは間違いありません。

発売直後から注文が殺到し、当時は本作の出荷待ちトラックが列をなしていたことから、ギャラクシアン通りと呼ばれることもあったとか。

しかし、ヒットゲームはコピー作品が出回ることも多く、当時は本作のコピーゲームも氾濫していたそうです。

キューティQ

1979年

ナムコ

ジービー、ボムビーに次ぐ、ピンボール+ブロック崩しゲーム。

本作もゲームデザインは、岩谷徹氏。

画面のレイアウトも一新され、進行によってフィールド内の地形も変化し、飽きにくいようになっています。

登場するキャラクターにボールを当てるとボーナスが入るなど、見た目も分かりやすい仕様に。

キューティQはボムビーを超えるヒットとなり、岩谷氏は本作でキャラクターの重要性を学んだといいます。

本作が無ければ、後に世界中で大ヒットとなるパックマンは生まれていなかったかもしれませんね。

海底宝探し

1980年

長野文化機器

SOS同様、ジービー基板の再利用して作られたアクションゲーム。

タイトル通り潜水士となって海底のお宝を引き上げる内容で、潜る際にサメに当たるとミスになります。

また、5つのうち1つは、入るとミスになる壺もあるなど、理不尽な難易度もあります。

70年代ならこれでも良かったでしょうが、さすがに80年代ともなると白黒画面で面白味は少なく、古臭く感じますよね。

当時から人気は低かったようです。

パックマン

1980年

ナムコ

岩谷徹氏の代名詞とも呼べる、世界中で大ヒットした名作。

2005年に、ギネス・ワールドレコードから

世界で最も成功した業務用ゲーム機

と認定されました。

岩谷氏は、元々女性受けするゲームを開発しようと考えており、女性は食べることが好きというコンセプトから始めたと言われています。

また、女性でも遊びやすいように、操作はレバーのみという設定も最初から決まっていたそうです。

残念ながら日本での出荷台数は1万5千台と、思ったほどは伸びずませんでした。

しかし、北米では大ヒットとなり、トータル28万台を売り上げる記録的な大ヒットとなります。

その後、ATARIの家庭用ゲーム機に移植されたり、テレビアニメが放送されたりと、北米では80年代のミッキーマウスと称されるほどに成功します。

当時のアメリカで、パックマンがどれほど人気があったのかは、映画「ピクセル」を観ればよく分かります。

80年代のナムコのゲームは、他社とはどこか違う余裕や新しいものに挑戦しようという気持ちが伝わってきますが、それらは全てパックマンがもたらした莫大な収入によって成り立っていたらしいです。

キング&バルーン

1980年

ナムコ

同社のギャラクシアンによく似た設定の、固定画面シューティングゲーム。

喋るゲーム第一弾の座は、サン電子のスピーク&レスキューに奪われましたが、本作もまた喋るゲームとして名を馳せた作品です。

落下してくる気球を撃ち漏らすと王様がさらわれ、その際に「HELP」と叫びます。

また、助けると「サンキュー」

上まで連れていかれると「バイバイ」

と合成音声が入ります。

自機は無制限で、王様のみさらわれないように注意すればいいため、ゲーム性を理解しておけば序盤の難易度は低めとされています。

タンクバタリアン

1980年

ナムコ

固定画面のアクションシューティングゲームで、司令部を守りながら敵戦車を倒していきます。

残機制ですが、司令部が破壊されると残機に関係なくゲームオーバー。

MSXでは同名タイトルで移植されますが、ファミコンにはアレンジされたバトルシティとして移植されます。

どちらかというと、タンクバタリアンよりも、バトルシティの方が知名度が高いかもしれませんね。

ラリーX

1980年11月

ナムコ

迷路上のステージを、右のレーダーを見ながら敵を交わしフラッグを取っていくアクションゲーム。

発売してすぐ社長に「難易度が高すぎる!」と指摘され、難易度調整され僅か1か月後に発売したのがニューラリーX。

ゲーセンでの稼働期間は非常に短く、当時ゲーセンでラリーXを遊んだことがある人はそれほど多くはいないはず。

ニューラリーXは大人気だったので、どちらかというと本作よりもニューラリーXのイメージの方が強い人が多いでしょうね。